JAL123便事故 関連資料・8

「風にそよぐ墓標」 門田 将隆 著(集英社) より
プロローグ②

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生存者・川上慶子さんを抱え、ヘリに吊り上げる陸上自衛隊第一空挺団の佐久間優一二曹(当時)。必死で歯を食いしばったのは、涙をこらえるためだった。

生存者の救出は、自分たちの任務である。空挺部隊は、隊長の重高昭教一佐の命令で降下地点に集合、ただちにスゲノ沢がある北側斜面を駆け下りていった。

生存者は途中まで担ぎ上げられてきた。斜面の途中で自衛隊員たちが、それを引きついだ。緊急につくられた担架に乗せられた四人の生存者を、自分たちが降下した場所まで担ぎ上げる作業に作間さんも加わった。

一人が終われば次、また次、そして次……四人はあっという間にリレーで上まで運ばれた。二番目の担架をかついだ時、作間さんの右手が上からぎゅっと握られた。

驚いた作間さんが振り向くと、それは運ばれている生存者本人の手だった。「生」への凄まじい執念を作間さんは感じた。あとで、その女性が落合由美さんだと知った。

ヘリからホイストという降下装置によって下ろされた日本赤十字社の医師と看護婦が、すでに現場で待機していた。すぐに、四人の容態を診てもらった。

「命に別条ありません」
その声は、現場に波のように広がっていった。



しかし、そこからが大変だった。四人の生存者を運ぶヘリが現場に近づけないのだ。尾根から北東の方向に向かって、何十機ものヘリが列を成していた。そのため肝心の救出ヘリの順番がなかなか来なかったのである。

担架やさらしなど、必要なものが現場から要請され、それらを積んだ緊急ヘリが次々と御巣鷹山に飛来していた。

接触事故を避けるために、ヘリは一列になって待機する。事故現場から北東の山と山の問、すなわち麓の方に向かって、ヘリが一列縦隊となって空中で順番を待つ光景は、壮観だった。

多くの報道ヘリも空中を舞っている。焦れば、二次災害が起こっても不思議ではない状況だった。だが、そのために肝心の救出ヘリがなかなか現場に到達できないのである。すでに上まで担ぎ上げられてからゆうに二時間以上は経過していた。

「あなたたち! この人たちを殺す気なの?」
看護婦が、自衛隊員に向かってそう叫んでいた。この生存者たちをなんとしても助ける、という気持ちは誰もが同じだった。やっと救出ヘリの順番が来たのは、午後一時を過ぎてのことだった。まず吉崎美紀子ちゃんが上げられていった。


【関連記事:生存者の救出が遅れた理由とされる記述①↓】
http://nekotomo.at.webry.info/201209/article_9.html#seizonsha1


「クマさん、頼む!」
クマさんとは、「作間」の名前を縮めた愛称だ。上官の岡部二尉はそう叫ぶと川上慶子さんの命を作間さんに託した。この時、岡部二尉も作間さんも川上慶子さんを男の子だと思い込んでいた。髪の毛も短く、短パン姿で、顔も汚れて黒くなっていたからだ。

「子どもは、抱いて上がってください!」
看護婦の要請で、作間さんはぐっと抱き上げ、足で下半身を固定した。鼓膜を突き破るようなヘリの爆音の中で、作間さんと慶子さんの身体は浮き上がっていった。



その場所に四半世紀を経て、作間さんは戻ってきた。

「てっきり(慶子さんを)男の子だと思っていました。地上から身体が浮いた時、ミルクの匂いというか、母乳の匂いがしたんですよ。その時、なぜか急に涙がこみ上げてきましてね。あの時、私の子どもは上が小学校三年生で、下が三つでした。上は男で下が女の子です。子どもって赤ちゃんの時に母乳というか、そういう匂いがするじゃないですか。それを感じたんです。涙を止めるのに必死で、歯を食いしばりました。絶対に命に代えてもこの子を助ける、という思いでした」

最初に見た凄惨な遺体と自分が抱いている生存者の匂い。作間さんは、極限の場面で人間の生というものに対する感動を覚えたのかもしれない。

作間さんは、父親として慶子さんを抱きかかえていたのだ。

話を聞きながら現場に立っていると、やがて雨が小降りになり、雲が風に流されて消えていった。あっという間に、御巣鷹の尾根に晴れ聞か見えた。山の天候は変わりやすいが、それにしても、白いガスが流されていく速さには驚かされる。

作間さんは、意外な話をしてくれた。

「あの日、夕方の御巣鷹山の天候が悪化して、私は夜までに事故現場へ戻れなくなったんです。その日は、私は相馬原演習場に停めたヘリコプターの横で一夜を明かしたんです。早く現場に戻って、遺体の搬出をしなければならない、仮設のヘリポートも造らなければならないと思いながら、私だけが現場から離れていることが仲間に申し訳なかった。翌朝にヘリで事故現場に戻るまで、いろいろなことを考えました。夜、一番考えたのは、自分が抱えたあの子は、これからどうやって生きていくのか、ということです。あの状況では家族は助かってないだろうし、きっとこれから一人で生きていかなければいけないだろう、と思いました。私は、あの子にもし身寄りがないんだったら、うちで養子にしよう、と考えていました。それを女房に何て言おうか、女房は納得してくれるだろうか、と、思いながらあの夜を過ごしました」

なぜ作間さんはそんなことを考えたのだろうか。

「私たちが行って救助したのは事故から十何時間後ですよね。私は、彼女を上げながら、この子はまともな人生というか、人を怨まずに人生を送れるのかということを考えたんです。だから、自分が面倒を見なければいけないのではないか、と思ったんです。でも、あの後、入院した川上さんが、お世話になった看護婦さんに感謝の手紙を書いたじやないですか。報道でそれを知った時に、ほっとしたんです。人を怨まない、感謝する気持ちを忘れないでこの子はいてくれたんだな、と思いました。その時に、ヘンな言い方ですけど、ああ心配しないでいいんだ、これで自分との縁は切れたなあ、と思ったんですよ。あの子が感謝するという気持ちを持っていたことに、私は安心しました」

自分が吊り上げていった人間を作間さんはそこまで気にとめていたのである。

翌朝一番に、再び事故現場にヘリから降りた作間さんは目を見張った。そこには、自衛隊員の手によって、すでに仮設のヘリポートができ上がっていたのである。それだけではない。

北側のスゲノ沢に向かう急斜面にも、人が通れるような道が拓かれていた。それらを使って猛然たる遺体の収容と搬出作業が始まったのである。習志野空挺部隊が現場から去っていったのは、八月十五日のことである。都合三日間の救援、搬出活動だった。

「あの時の仲間だちと、その後集まってもこの時の話はいっさい出ませんねえ。誰も語りません。それだけ衝撃が強かったんだと思います。人間というものがいかに儚いものであるか、私は教えてもらいました。あれ以来、私は考古学に興味を持つようになりましてね。それも人類の歴史です。いろんな本を手当たり次第に読むようになりました。自分で考古学上の発見を書いた表を作って、新しい発見があると、そのたびにそこに書き込んでいくんですよ。地球の歴史からみると、人間なんてちっぽけなものです。あの事故以来、なにかそういうものに興味が湧いてしまいました」

そういうと作間さんは自分が考古学に興味があるということを、柄にもないと思ったのか、ちょっぴり照れくさそうな笑みを浮かべた。

再び、雨が強まってきた。

「実は、女房の誕生日が八月十二日なんですよ」
と、作間さんはこんな話もしてくれた。

「この二十五年間、わが家は女房の誕生祝いを八月十二日にやったことかありません。いつも、一か月ぐらいずらしてやるのが習慣になってしまいました。八月十二日にお祝いごとをする気には、家族全員がなれなかったんです。でも二十五年も経つし、今年ぐらいから、そろそろどうか、と話してたんですよ。でも今日ここに来て、やっぱりそれが無理だということがわかりました」

最後に作間さんは、こう呟いた。
「今度は一人で来てここに泊まり、ここで眠る方々と一晩、話をしなければ……」

この現場から多くの遺体を抱いて運び出していったあの活動から二十五年も経つ。

降りしきる雨の中、作間さんは、ここから天に昇っていった五百二十の魂に思いを馳せているようだった。五百二十の魂には、それぞれの「家族の物語」があったことを思い浮かべながら――。

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