JAL123便事故 関連資料・7

「風にそよぐ墓標」 門田 将隆 著(集英社) より
プロローグ①

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事故機の残骸の前で合掌する自衛隊員

「ああ、これは雨になりそうですねえ」
車で秩父を出た時は晴れ上がっていた空か、埼玉の県境を越え、群馬に入るあたりから怪しくなっていた。国道二九九号線の空を見上げながら、私は車に同乗している旧知の作間優一さん(六一)にそう声をかけた。

二〇一〇(平成二十二)年六月、あと二か月ほどで、「あの日」から四半世紀が経つ。

「そうですねえ。山の天候は変わりやすいですから」
出に詳しい作間さんは、そう呟いた。私はこれから向かう御巣鷹山に晴天の日こそ登ったことがあるが、雨の御巣鷹山は初めてである。

「なんとか(天気が)もってくれるといいが……」
と、私は思った。

還暦を過ぎても日焼けし、精悍さを失わない作間さんは、かつて陸上自衛隊第一空挺団(習志野空挺部隊)に所属していた元隊員である。作間さんはあの日から二十五年ぶりに御巣鷹山に行く。

「いつかは行かなければならない」
作間さんは、この二十五年間、そう思い続けてきた。二十五年前、作間さんは、御巣嵐山に「空」から舞い降り、そして「空」から帰っていった。作間さんがぷ少いて〃御巣鷹山に登るのは初めてのことである。

私が作間さんと御巣嵐山に来たかったのには、理由がある。

作間さんが、あの悲劇の大きさと、その後の二十五年という歳月の重さを知っている最大とも言える生き証人だと思っていたからだ。

数年前からあの時に出動した習志野空挺部隊の面々と親しくさせてもらうようになった私は、いつか作間さんを御巣鷹山に連れて来たいと思っていた。

昭和六十年八月十三日朝八時五十分、作間さんは、習志野空挺部隊の二等陸曹として、御巣鷹山の墜落現場に降り立った。一小隊十二名の六機編成で隊長以下全七十三名の出動だった。任務は「生存者救出」だ。

習志野空挺部隊が災害派遣に出されることはほとんどない。日本の自衛隊の中でも最精鋭部隊である習志野空挺部隊は、空からの敵の制圧、撹乱を目的とする部隊であり、そのために日夜、過酷な訓練を続けている。いわば日本の自衛隊の中でも特別な存在であり、事故や災害で動くことは稀有なのだ。

しかし、この未曾有の航空機事故は、その精鋭部隊を現場に呼び寄せた。

山頂近くの極めて幅の狭い平地、断崖といってもおかしくないほどの南側斜面、沢へと落ち込んでいく急峻な北側斜面、山腹から噴き上がる悪気流……そんな厳しい条件をものともせず、ヘリを長時間、空中でホバリングさせた上で隊員を現場へ降下させることができる部隊は、日本では数少ない。それこそが、習志野空挺部隊だった。

作間さんたちが乗るバートルV一〇七は午前八時五分に習志野を飛び立った。出発前、三番機の隊長、岡部俊哉二尉が作間さんら隊員に向かって言った。

「悲惨な現場を見ることになると思うが、しっかり任務を全うせよ」
隊員は直立のまま、これからの過酷な作業を思い浮かべて身を引き締めた。

ヘリは川を目印にして飛ぶ。江戸川から利根川へと川沿いに遡ってヘリは一気に現場を目指した。わずか三十分後に彼らは早くも御巣鷹の尾根上空に到達している。

三番機は、岡部二尉を筆頭に作間二等陸曹以下、次々とロープを使って現場に降下(注・リペリング降下)していった。

「習志野空挺部隊をなぜもっと早く投入しなかったのか」

「夜明けと共に出動させていたら、生存者はさらに増えていただろう」

今もってそんな声がある。たしかにそうだろう。真っ暗闇の夜中の現場への降下はともかく、白み始めてからいち早く習志野空挺部隊を投入していれば、実際に生存者は倍増していたかもしれない。

現場から北側にあたるスゲノ沢と呼ばれる沢の方へ滑落していき、四人の生存者が出た機体後部付近では、夜中、「ようし、僕はがんばるぞ」という男の子の声や、まわりを励ます大人の声、あるいは助けを求める女性の声が上がっていたことが、生存者たちの証言によって明らかになっている。

習志野空挺部隊を投入するという上層部の「判断が遅れた」ことが、何人かの生存者をみすみす見殺しにする結果を生んだことは間違いないだろう。

いずれにしても、それはどの期待を担う実力を持っていたのが習志野空挺部隊だった。

その中でも。“ミスター空挺”と称されたのが作間さんだった。パラシュート降下やりペリング降下の技術はもちろん、格闘術でも群を抜く力を持っていた作間さんは、全国自衛隊徒手格闘大会で何度も日本一に輝いたことがある。部隊の中では、“作間”をもじって“悪魔”という異名まで奉られるほどの猛者だった。

あの単独機として世界最大の事故となった中で、生存者の川上慶子さん(一二)=当時=をヘリコプターに吊り上げて習志野空挺部隊が救出する有名なシーンがある。その慶子さんを抱いて上がっていった人こそ作間さんである。

御巣鷹山事故と言えば、必ず登場する川上慶子さんの救出劇。腕で彼女を抱え、足で挟みこんでヘリに上がっていく作間さんの姿は、日本のみならず世界中で感動をもって報じられた。

黒く日焼けした作間さんが真っ白な歯を食いしばって慶子さんを救出するシーンは、この大事故の中で、唯一の救いだった。

いわば、作間さんは悲劇の中の希望の象徴だったのだ。

だが、あまりに有名なこの場面が作間さんのその後の人生を変えた。ことあるごとに「あの時の……」と言われ、マスコミからもよく取材を中し込まれ、自衛隊内でも特別視された。派手なことが嫌いな作間さんは、より寡黙になり、ふだんの行動を縛られた。

御巣鷹山にその後、作間さんが来ることができなくなった一因もそこにある。

しかし、四半世紀の歳月を経て、作間さんは初めて御巣鷹山に。“歩いて”やって来たのだ。

私たちが登山口に着いた頃には、雨がかなり本格的になってしまった。車を降りると、作間さんは上下ともにレインコートで完全武装した。私は、肩からカバンを下げ、傘を右手にさしながら登った。

年々、御巣鷹山の事故現場へのアプローチは容易になる。現場まで歩いて一時間半はかかった旧登山口から、二〇〇六年には現在の新登山口まで道路が延びた。そこまで自動車で行くことが可能になったのだ。尾根への最後の急峻な坂はさすがに今も変わらないが、それでも歩く時間は、三十分ほど見ておけば十分だ。

作間さんは、さすがに空挺部隊で鍛えた身体で、体まずどんどん進んだ。私は作間さんより十歳も若いというのに、最初こそ同じペースで歩いたものの、たちまち置きざりにされてしまった。

急が切れ、登山道の途中に置かれているベンチで休憩してまた登り始めると、一度、尾根の上まで行ったと思われる作間さんが、私を探しに降りて戻ってきてくれた。

結局、私が事故現場の「昇魂之碑」の前に辿り着くには、やはり三十分を要してしまった。おそらく作間さんは、二十分とかからなかったに違いない。

私は、「昇魂之碑」の前に来た時、思わず声を上げそうになった。

周囲が白いガスの中に完全に包み込まれ、幻想的な雰囲気の中に「昇魂之碑」だけが、ボーッと浮かび上がっていたのだ。

以前、晴天の日に来た時に、まっすぐ青空に向かって屹立していた「昇魂之碑」と、それはまったく異なる相貌を見せていた。違う場所に来だのではないかと、一瞬、私は錯覚しそうになった。

「ここです。このあたりです」
その幻想的な世界で作間さんはそう言って、二十五年前にヘリから最初に降り立った場所を示してくれた。それは、「昇魂之碑」の前からやや下方に行った坂の途中だ。

空挺部隊はここへ次々と降下した。作間さんの上官だった岡部二尉に、私は以前、その時の模様を聞いたことがある。

油の匂いが鼻孔をつき、靴底から地面が持った熱を感じる中、空挺部隊の隊員たちは稜線を中心に右(北)側斜面と左(南)側斜面を十二名ずつ、まず横一列になって上がっていった。

生存者救出を第一の目的とする彼らにとっては、なにより現場の状況を掌握することが第一である。

人間の肉体の一部が、そこここに散乱していた。血と肉片で真っ赤になった木もあった。さらに上には人間の長い髪の毛が背中の皮ごと木からぶら下がっていた。女性のものだ。

のちにX岩と呼ばれることになる事故現場の頂点に位置する岩には、引きちぎられたように人間の腹部が張りついていた。

「無理だ。生存者がいるはずがない」
隊員は誰もがそう思った。一団は、そのX岩を越えても、さらに稜線を上がっていった。焼け焦げた事故現場はX岩が最後だが、尾根の稜線自体は、そのまま続いている。飛散した部品や遺体の一部、所持品などが全くない場所まで最初の降下地点から二、三百メートルはあった。そこを隊員たちは無言で歩いていった。

隊員たちは、まず第一現場の状態を把握した。しかし、彼らも、いま来た斜面を振り返った時の衝撃は、忘れられないだろう。

そこには、歩いてきた時には気がつかなかった地獄さながらの惨状が広がっていた。第一現場の全体が見渡せた時、初めてそのむごさが隊員たちの胸に押し寄せた。

その色を“赤”と表現する隊員もいれば、黒、あるいは茶色と語る隊員もいる。事故現場から犠牲者たちの慟哭が、自分たちの方に向かって一斉に上がってくるように思えたのである。

「生存者がいます!」
無線で報告が入ってきたのは、間もなくだった。

「生存者? そんなことがあるのか」
目の前の光景と、生存者という言葉の持つ意味との乖離に、彼らはわが耳を疑った。その時、この第一現場から高低差が二百メートルはあろうかというスゲノ沢と呼ばれる沢の方で生存者がいることがわかったのである。地元・上野村の消防団は、夜を徹して現場を目指し、スゲノ沢に辿り着き、そこで生存者を発見したのである。

御巣鷹の尾根に降り立った空挺部隊と、下から自分の足でやってきた消防団員たち。両方の現場が掌握された瞬間だった。

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