JAL123便事故 関連資料・6

「隠された証言」 藤田 日出男 著(新潮社)より
第1章 墜落現場④

米軍横田基地所属の米軍輸送機C130が、墜落現場に最も早く着いていたことはすでに書いた(①)。

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墜落から20分も経たない19特15分頃、事故機の煙を発見し非常に正確な位置を報告した。横田タカンから305度、34海里、実際の事故現場よりやや北寄りである。
この情報は、防衛庁に伝えられたが、なぜか無視された。

当日、この飛行機に乗り組み、ナビゲーターを務めていたアントヌッチ米軍大尉(当時)は、米太平洋軍機関紙「太平洋星条旗」紙(1995年8月17日付)に手記を掲載し興味深い証言を残している。その中で、

「日航123使の墜落は、本当は2つの惨事だった。
第1は、墜落の衝撃によって命を奪われた人たちの死であった。
第2は、遺体回収を手伝った医師たちによって言いあらわされた。
医師たちは、もし救助がもっと迅速にやってきたならば、負傷が致命的ではなかったかもしれない人々を発見していただろう、と語っていたのである。
1人の内科医の言葉で、私は骨の髄まで震え上がった。
『もしも発見が10時間はやければ、われわれは、いっそう多くの生存者を見出すことができたであろう』と彼は言った」

こうした手記をどういう経緯でアントヌッチ氏が書くことになったかは詳らかではない。ともあれ、この記事を読んだ遺族の川北宇夫(たかお)氏がアントヌッチ氏に連絡をとった。以下は、川北氏がアントヌッチ氏と手紙、ファクスでやり取りした「私信」の一部である。

川北 : 96年8月の上野村でのシンポジウムに招待したいがどうか?

アントヌッチ : 招待は光栄だが「職業的責務」のため出席はできない。だが、自分の体験に関する以下の説明を行事にて発表され利用されても結構。

*私の体験の記事を日本人が目にするとは予想していなかった。

*私は救援措置で何かが間違っていたという確信を持っている。

*当時私が報告した現場位置測定が不正確だったという記事を読んだが、今でも誤差1マイル以下で正しかったと確信している。

*一点だけ私の誤りを訂正したい。当時自分が電波誘導したヘリは厚木基地の海兵隊ヘリではなく、キャンプ座間の米陸軍ヘリの間違いだった。

*現場は急峻な地形で救援活動に危険を伴うことは認めるが、それでも救援隊の現場降下があれほど遅れたことには疑問を感じる。

*本件における救援努力とそのあとの出来事は緊張状態を増す結果にのみ終わり、今も私の心を乱している。

川北 : 我々の目的は緊張状態をますことではなく、肉親の死の真相解明と将来の墜落事故における生存率向上への寄与であることを理解して欲しい。その上で以下の質問に答えて欲しい。
横田の米軍ヘリに夜間現場に降下する能力はあったか?

アントヌッチ : ヘリの装備については断言できないが、横田のヘリはサーチライトを装備していた。

川北 : 「夜間現場に近づくのは不可能だった」と主張するのは日本人か米国人か?

アントヌッチ : ジャパンタイムス紙の記者から当時の自衛隊中部航空作戦司令官のオオナカ・ヤスオ氏が「夜間現場へのリペリングは危険と判断し断念した。米軍でも不可能だったろう」と主張していることを聞いた。

川北 : 「森林進入装備」とはどんなものか?

アントヌッチ : 特殊な防具で森林地帯への降下を可能とする装備。自衛隊もこの装備を保有していたものと確信している。

川北 : 95年9月25日のテレビ朝日「ニュースステーション」に元航空自衛隊中部航空方面司令官・松永貞昭氏が出て、あの夜の現場への降下は「自殺行為」と断言している。

アントヌッチ : 「リペリング」とは滑車を利用したロープによる降下のこと。私の見た新聞報道では自衛隊による最初の現場降下は13日午前7時45分とある。日の出はそれ以前のはずなのに、なぜ日の出と同時に降下しなかったのだろう? また、朝まで何の対応もしないと決定したのは誰なのか?

私のTACAN測定は間違いなかったと確信している。もし朝まで救援活動が試みられなかったのなら、少なくとも飛行機1機を現場上空に張りつけるべきだったと思う。

私は以下の点についてずっと疑問に思っている。すなわち、自衛隊は残骸の位置を知っていたのだろうか? もし知っていたならどうしてもっと早く救援活動をしなかったのか? 知らなかったのなら8時42分に上空を旋回していた2機のヘリは何者だったのか? その後どこへ行ったのか?

真相究明のためには以下の3点が明らかにされる必要があると思う。

①8月12日6時57分より9時20分までの間に日米当局でどんな交渉が行われたのだろうか?

②なぜ我々は現場を去るように命令されたのか?

③日本の当局はどのような命令を救援隊に与えたのか?(日本のV107ヘリ2機は交代機が来る前に現場を去るよう命令されたのか? 誰かが「朝まで現場を放棄しよう」と言ったのか?)

川北 : 95年8月17日付「太平洋星条旗」に載ったあなたの体験によると「現場到着2時間後の午後9時20分、最初の日本機が現れた。管制塔はそれが日本の救援機だと言った」とあるが、その日本機はヘリコプターか? 固定翼機か?

アントヌッチ : 我々が現場を去る直前に到着した日本機は固定翼機だった。高度は海抜1万3千~1万5千フィート東から接近してきたように思う。機長のグリフィン大尉がその機に「現場を渡す」旨送信していたようだが応答はなかった。

川北 : あなたは座間キャンプの米陸軍ヘリを現場に誘導したが、あなたが交信したヘリの乗員は海兵隊員だったのか?

アントヌッチ : のちにグリフィン大尉と記憶を突き合わせた結果、私が「海兵隊」としたのは間違いで「陸軍」と訂正されるべきだ。

川北 : 「太平洋星条旗」紙にはあなたの「私は後に日本の危機管理当局に近い人間から彼らが自分たちより2時間も前に1機でなく2機の米軍機が現場にいたことに驚いたと聞かされた」との発言があるが、あなたにそう語った人物の名前や所属、そしていつ彼があなたに語ったのかを教えて欲しい。

アントヌッチ : その人物はオフレコの約束で話してくれたので名前は言えない。自衛隊に多くの友人を持つ「第5空軍」の関係者とだけ申し上げる。

川北 : 95年9月25日放送の「ニュースステーション」で、当時の在日米軍最高幹部が匿名を条件に「事故の当日かなり早い段階で日本の自衛隊は米軍の援助を断わった」という事実を明かした、と報道した。この点についてはどう思うか?

アントヌッチ : 在日米軍最高幹部の証言は真実で正確だと信じている。その人が誰かを知る方法はない。

川北 : 同じく「ニュースステーション」で松永司令官は夜間における山間のりペリングは自殺行為、と言明しているがこの点についてはどう思うか?

アントヌッチ : 確かに危険ではあるが、「自殺行為」と呼ぶのは馬鹿げている。夜明け前に墜落現場に多くの救援隊員を降下させることは可能だった、と改めて強調したい。


以上が、概要である。当時の自衛隊が現場を「そのままに放棄していた」ことが、よく分かる。

当時、「自衛隊の飛ばした標的機が誤って123便に衝突した」という風説が流され、週刊誌の誌面をさわがせたりもした。そうした陰謀論には、このような背景があった。

ほかにも流言は飛んだ。ミサイル自衛艦「まつゆき」が12日、相模湾でミサイルの発射テストを行っていた。このミサイルが123使を直撃したというのである。一笑にふすことができないのは、確かに12日夜の防衛庁が普通ではなかったことによる。

海幕があわてて走り回り、そうとうな地位にいる者まで、湘南方面に来たと言われる。彼らは「あるいは、もしかすると、またウチがやったのでは?!」と疑心暗鬼に陥っていたことは間違いない。雫石事故の悪夢がよみがえったのだ。

正確な情報を避け出所不明の情報を重視

地上でも墜落現場の特定には、なかなか至らなかった。ここでも不可解としか言いようのない作為のあとが歴然と残っていた。その経過はこうである。

事故の直後、8月16日付の東京新聞には、「墜落地わかっていたのに……地元民」との見出しで、次のような記事が出ていた。

「生存者を発見した堀川守氏は、『墜落現場が小倉山だの御座山だのと言っていたのは、機動隊や自衛隊の連中だけだ。オレたち地元の住民は12日の夜から、南のスゲノ沢の方だと確信していたんだよ。なのに、(警察などは)オレたちの声を無視してあさっての方向を捜索させた。4人以外にも生存者がいたのなら夜中でも十分救出に行けたんだ!』とぶちまけた」

「12日の午後11時ごろ群馬県警からの要請で、地元の猟友会のメンバーの人たちが捜索の先導のために集合した。地元の人たちが口をそろえて、小倉山でも御座山でもないと進言しても、機動隊は聞こうとせず、全然、関係のない御座山のほうへ案内させられた」
私も猟友会の人から同様な話を聞いている。

機動隊や自衛隊は、いったいどこから「墜落現場は御座山」という情報を得たのだろうか。後に調べたところ、警察への110番通報で、通報者の氏名はわかっていないことが判明した。

地元の人間に案内を依頼しておきながら、彼らの主張するスゲノ沢のほうには案内させず、見当外れの御座山に案内させたのでは、意図的に地元の人たちを事故現場に近づけさせたくなかったとしか考えられない。事故現場から10キロ近く離れた、長野側に引き付けて置きたかったとすれば、誰が、何のために?

事故の翌年、上野村を訪れたとき、現地で捜索に協力した人が言っていた。「あの時はおかしいと思ったんだ。墜落現場に俺たちを行かせたくなかったんだと思った。だけど俺たちが行って悪いことってなんだろうと言う話が出て、警察か自衛隊がもう先に行って、何か探してたのじゃないかと言う話も出ていた。それを見られるとまずいと思って、俺たちを御座山の方に行かせたのじやないかなと小声で話したよ」

そう聞いて、ふと「もく星号事故」が頭をよぎった。米軍がパラシュートで先に現場に降りて、生存者と何ものかを探していた。そんな噂が広がったことを連想したのだ。
その間に一般市民のほうが先に現場に到着してしまっていた。

ここで、地上の目撃情報などをまとめてみた。

8月12日

①事故直後の18時55分頃から、「南相木村と群馬県境で赤い煙を見た。10分後に黒い煙になって消えた」など、かなりの数の情報が寄せられた。これらの情報は通報者の氏名がほとんどわかっている。内容は群馬県方面に飛行機が落ちたと言うものが多い。

②20時08分 氏名不詳の110番通報で、「北相木村のぶどう峠付近に飛行機が落ちたらしい」との通報があった。経験してお解りの読者も多いだろうし、私も一度経験があるが、110番通報すると、すぐに「あなたのお名前をおっしやってください。どちらから電話していますか?」と聞かれるのが普通である。どうして氏名不詳なのか。氏名不詳情報にこの日の夜半まで捜索隊が振り回されることになる。なぜ出所不明の情報を信じたのか?

③20時21分 上野村役場に、奥名郷の住民から「両神山の方向に19時30分から50分の間、火が見えた」との情報が捜索関係者に寄せられた。

④21時39分 群馬県警対策本部に、「群馬県・長野県境のぶどう峠で白煙が上がっている」との目撃情報があった。情報源は明確でない。

⑤右と同じ21時39分に、長野・埼玉両県警のパトカーが、三国峠付近で合流、西北西の方向に赤い煙を確認。三国峠から煙が見える範囲と方向は墜落現場と一致している。事故機は墜落当時まだ20トンほどの燃料が残っていたと推定される。墜落から3時間ぐらいの間は、まだ燃料が燃え続けていたと思われる。この時間で白い煙には変わらない。燃料は地上などで燃えると赤い炎を上げて燃えるが、夜間であれば煙にその明るさが反射して赤い煙に見えるものである。普通の火事でも同じ現象が見られ、「火事で空が赤かった」などとよく言われるのは、ご存知の通りである。

⑥21時59分 自衛隊空幕から運輸省運用課へ、千葉県嶺岡山のレーダーから消えた位置を「北緯36度02分・東経138度41分、長野県北相木村御座山北斜面」と知らせてきた。これは3時間前の計測位置である。もちろんこの位置は、御座山の北斜面ではなく7・5kmほど東で、墜落地点の約4km北にあたる(防衛庁情報1)。

⑦⑥の時刻に接近して、「御座山の中腹に煙をみた」という防衛庁筋のテレビ報道があり、「墜落現場は長野県北相木村の御座山北斜面」と言う誤報が、日航、警察、長野県警に伝えられたのと重なって、三国峠にいた警察関係者、航空局長までがデマに乗せられた形で、御座山に移動した。マスコミ各社も、日航が記者会見で「御座山」といったために大きな影響を受けて誤報を受け入れた(防衛庁情報2)。

⑧23時00分 群馬県警は上野村に警官千人を入れると上野村に通知。警察が主力を御座山ではなく上野村に動かし始めた。上野村の警察は「小倉山」付近(群馬県上野村にある小倉山で長野県の御座山とは違う)の民家に聞き込みをしたが、小倉山で機影を見た人は居なかった。

⑨23時17分 信濃新聞社より上野村消防署に電話があり、「自衛隊のヘリコプターに位置を確認したところ、小倉山と品塩山を結ぶ線らしい」との情報が伝えられる。捜索するも事実なし。私が地元の人に聞いたところでは、この辺りには人家があり、音も聞こえ煙も見えたはずで、
「落ちていたらもっと早くわかってる」とのことであった。

⑩23時30分 長野県警は「現場は群馬県」と断定した。これでやっと御座山説が否定された。

8月13日

⑪2時20分 マスコミ各社に防衛庁と名乗る情報で、墜落地点は、御座山の南斜面という情報が流されたが、現地関係者の間では、もはやこの明白な誤報を信用する人は少なかったと言われる(防衛庁情報3)。

⑫4時39分 航空自衛隊のヘリ、V107型機が墜落地点を確認。扇平山の北lkm(防衛庁情報4)。

⑬5時10分 陸上自衛隊OH6型機が機体を確認。位置は「御座山の東5km」と報告(防衛庁情報5)。

こうして経過をたどると、正確に現場の位置を指摘しているのは、⑤のパトカーによる三国峠からの目撃情報である。この情報に対して、マスコミなどを長野県側に必死に誘導するように、御座山情報が繰り返された。

長野県警が「ない」と言っているにもかかわらず、「御座山南斜面」と言う情報を最後まで防衛庁筋が流したことには、固執しすぎとの批判が航空関係者の間で聞かれた。よほど現場に人を近づけたくない事情が政府側に在ったのではないかと不穏な批判を目にする者も現れた。特に埼玉と長野県警のパトカーの情報は、複数の現地の事情に詳しいパトカーからの連絡であり、空からの情報とも一致していた。本当の事故現場を隠しておきたい意図から、急濾「御座山情報」が⑥、⑦と続いて流されている。

地元の猟友会の人たちをスゲノ沢の方へ行かせなかった事実と考え合わせると、群馬県警察と防衛庁は、事故現場は十分承知していた上で、そこから敢えて人を遠ざけようとしていたとしか考えられない。

何年か後に、墜落現場には夜のうちに自衛隊が入っていたという径情報が流れた。まさかと思っていたが、調べていくうちに、この噂が妙に真実味を帯び始めたことを記憶している。
事故から10年もした頃だろうか、やはりこの事故を調べていた軍事評論家と親しくなった。事故当時の噂話をして、まあ陰謀史観みたいで根拠は薄いですねと笑ったが、彼は至極真面目な面持ちで、

「いや、それはあり得ます。というより、墜落直後にはもう陸から現場に入っていたと考える方が軍隊というものの理に適っているのですよ。どこの国の軍隊もそうですが、普通の部隊だけでは戦争は戦えない。特殊な能力を備えた連中が必ずいるのです。もちろん、自衛隊の中にもそういう部隊が存在するでしょう。墜落現場を偵察して状況を報告するわけですよ」
なるほど、言われてみればその通りかもしれない。そう考えると、ある怪情報がパズルの1ピースのようにスペースにカチリと塡まった。

事故の翌日、現場に最も早く到着していた一般人、立命館大学の深井純一教授が教え子2人と下山してきた時、彼らは4人になっていた。残る1名が誰だったのか、ついに身元は不明だと言う。



JAL123便事故 関連資料・3

「隠された証言」 藤田 日出男 著(新潮社)
第1章 墜落現場①

生存者発見
http://nekotomo.at.webry.info/201209/article_8.html


JAL123便事故 関連資料・4

「隠された証言」 藤田 日出男 著
第1章 墜落現場②

置いておかれた生存者
http://nekotomo.at.webry.info/201209/article_9.html


JAL123便事故 関連資料・5

「隠された証言」 藤田 日出男 著
第1章 墜落現場③

遅れた救難と素早い事情聴取
http://nekotomo.at.webry.info/201209/article_10.html


JAL123便事故 関連資料・6

「隠された証言」 藤田 日出男 著
第1章 墜落現場④
http://nekotomo.at.webry.info/201209/article_14.html


JAL123便事故 関連資料・10

「隠された証言」藤田 日出男 著
第9章 事故原因

事故原因は何か
http://nekotomo.at.webry.info/201210/article_1.html


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