核燃料基地 六ヶ所村・6

あの未曾有の震災と津波そして原発事故から一年が経とうとしている。「喉もと過ぎれば…」で被災の当事者ではない人々(私も含めてだが)にとって、記憶や関心がやや薄れつつあるのではなかろうか。
しかし、東京新聞が連載している「核燃料基地 六ヶ所村」シリーズは、日本が安易に電力を原発に頼ってきた過去の検証と、危うい核燃料サイクルの現状を伝え、問題定義をしつつ一貫して脱原発の姿勢を貫いている。これらの記事の内容を記録として残し自分の記憶にしっかり留め、さらに原発について深く考察する上でも、今後もこのシリーズを転載していくつもりである。



東京新聞・こちら特報部 2012.2.20

■核燃料基地 六ヶ所村■

巨額マネー 村変えた

 使用済み核燃料の再処理など核燃料サイクル事業施設が集中立地する青森県六ケ所村。過疎で貧しかった村の暮らしを一変させたのが、施設と引き換えに流れ込んだ巨額の「核燃マネーだった。だが、福島の原発事故後には核燃料サイクル事業の見直しが議論に。経済と雇用を頼る村民はその行方を不安げに見守る。今年は雪も多い。春まだ遠い「核燃城下町」を歩いた。

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ホール、温泉、テレビ電話…

 電源立地地域対策交付金などの「核燃マネーの象徴といえる存在が、村役場に近い尾駮(駮おぶち)沼北側にある「尾駮レイクタウン」だ。核燃施設に関連した事業所などが立地する。核燃料サイクル施設を運営する日本原燃の社員寮には、全社員約二千四百人のうち約千人が住む。
 中学校や幼稚園、診療所も。建設費三十三億円をかけた村の文化交流施設「スワニー」は、国内有数の音響設備のコンサートホールを備え、図書館も併設する。

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文化交流プラザ「スワニー」のホールは約700人収容。
有名歌手のコンサートなどが開かれる=写真はいずれも青森県六ケ所村で


 「昔と比べ、随分便利になりました」。大型ショッピングモール「リーブ」で買い物をしていた主婦木村たえさん(七二)は、感慨にふける。「村には商店街がなくて、みんな数十キロも離れた隣町まで買い出しに行ったものです」
 リーブには格安の「村営」学習塾もある。運営する第三セクター「六ケ所地域振興開発」の業務課長秋戸学大(さとひろ)さん(四一)は「村の発展も核燃施設があってこそです」と話す。
 村の鷹架地区には、温泉施設「ろっかぽっか」がある。地下二千メートルて掘り当てた湯が売りで、レストランや宴会揚がある憩いの揚。七十歳以上の村民は無料で、送迎バスも運行する。日本原燃が建設して村に寄贈した。男性客(六〇)は「夕方や休日は大にぎわいだよ」と満足げだ。
 村の人口は約一万千三百人、約四千五百世帯。地上デジタル放送への移行に伴い、村は二〇一〇年度にテレビ電話を無償で全戸に設置した。

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村の全世帯に配備されたテレビ電話。村の行政情報も知ることができる

「除雪一番の恩恵」

 路上では何度も、大型の除雪車とすれ運った。住民にとって核燃マネーの一番の恩恵は除雪という。「昔は、雪が道さ吹きだまって、しょっちゅう車が走れなくなった」と振り返る。
 村は本年度約一億二千万円を計上し、建設業者に除雪作業を委託している。木村英裕財政課長補佐(五三)は「昔は村職員が除雪していたが、集落が点在して行き届かなかった。電源交付金のおかげで除雪委託費を出せるようになった」と話す。
 長芋焼酎「六趣」の製造。これも六ケ所地域振興開発が運営する。冷害に強い長芋は特産品。約二十年前、日本原燃に出向中の九州電力社員が、山積みに捨てられていた形の悪い長芋を見て「焼酎に利用したら」と発案した。工場で働く荒谷直人さん(31)は「村内での販売が中心のため『幻の焼酎』と人気が出ています」と胸を張った。

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長芋焼酎「六趣」。村外では手に入りにくい
ため「幻の焼酎」とも呼ばれる


原燃頼り 将来に不安

 六ケ所村はその名の通り一八八九(明治二十二)年、小川原湖以北の六つの集落が集まってできた。入植者が原野を開拓したが、夏は北東や東から吹く「ヤマセ」と呼ばれる風で常に冷害に見舞われた。その荒涼とした土地から「シベリア」「満州」と呼ばれたことさえもある寒村だった。
 そんな村が「開発」の舞台となるのは、国が一九六九年に「新全国総合開発計画」を閣議決定してからだ。高度経済成長期、石油コンビナート建設を目指す国家プロジェクト「むつ小川原開発」が動きだす。ところが、七〇年代の二度の石油危機で計画は頓挫。開発面積は大幅に縮小され、村内に国家石油備蓄基地だけが造られた。
 それがなぜ、核燃基地となったのか。
 県、国、大手企業など官民で設立したむつ小川原開発会社は、土地買収で巨額の借金を抱え、政治問題化した。八四年、各電力会社でつくる電気事業連合会は、核燃料サイクル施設の立地協力を要請。県と村は翌八五年、受け入れを決めた。それ以前から核燃基地構想は動いていたが、開発会社(九八年に経営破綻)救済の側面もあった。
 当時、住民は開発をめぐり、賛成、反対に二分され、激しい闘争が繰り広げられた。受け入れと引き換えに、享受することになったのが潤沢な核燃マネーだった。
 施設建設が始まった八八年度から二〇一〇年度までの電源交付金は、計約三百億円。日本原燃から村に入る固定資産税は一〇年度で五十七億円と村予算の半分近い。関連企業の固定資産税も入る。
 村は県内で唯一の地方交付税の不交付団体。村民一人当たり平均所得は県内トップクラスだ。日本原燃などで働く人たちが買い物などで村に落とす金も大きい。

見直し論議 行方注視

 福島の原発事故後、村の将来に暗雲が立ち込め始めた。政府が核燃料サイクルの見直し論議を始めたためだ。使用済み核燃料の再処理工場も技術的なミスが続いて本格操業には入っていない。
 前出の秋戸さんは「財政が厳しくなり『暮らしが変わるのでは』と不安を抱く村民も多い」と話す。木村財政課長補佐も「村施設の委託管理費だけでも、年間三億円以上。交付金がなくなれば、行政サービス自体もレベルを下げざるを得なくなる」と懸念する。
 かつて漁民を中心に反対運動が激しかった村北部の泊地区。泊漁港には漁船約六十隻が係留され、交付金で造られた豪華な荷さばき施設が建っていた。

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「核燃マネーに翻弄されてきた」と語る種市信雄さん

 漁師の種市信雄さん(七七)は「表立って核燃に反対している人はもうほとんどいない」と語る。「海が汚染される」と反対運動を展開した中心人物の一人だ。村長選での反対派候補の敗北や核燃事業の既成化で運動は衰退していった。
 種市さんは「核燃の施設はいつかなくなるかもしれないが、そうなってからでは村は立ち行かない。漁業や農業の加工販売やネット販売などを進めて、核燃マネー依存から抜け出さないといけない」と訴える。
 核燃料サイクルの見直しが進んでも、使用済み核燃料の処理問題は残る。脱原発は「脱六ケ所村」とイコールではない。種市さんは、現実を見据え、もう一つの懸念を□にした。「このまま核廃棄物の最終処分場にされてしまう恐れだってある。六ケ所村は国に翻弄されている。これまでも、これからも」

デスクメモ
 六ケ所村は古来、馬の産地として知られ、源頼朝の名馬「生食(いけづき)」も生まれたところという。しかし、ヤマセのために稲作には適さず、ジャガイモやゴボウなどが採れるだけ。かつて同じ県内の人間からもやゆされるほど貧しかったという。国と電力会社はそこに付け込んだというのは言い過ぎか。




今までのシリーズを通して、六ヶ所村を中心に青森県の下北半島一帯が、核に関係する施設が多数建設され、原発関連の一大基地であるということにお気づきだろう。

<六ケ所村>
●むつ小川原港(使用済み核燃料・高レベル放射性廃棄物の積み出し積み降ろし)
http://nekotomo.at.webry.info/201109/article_7.html 
●高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター
http://nekotomo.at.webry.info/201202/article_4.html
●再処理工場
http://nekotomo.at.webry.info/201202/article_5.html
●低レベル放射性廃棄物埋設センター
http://nekotomo.at.webry.info/201202/article_6.html
●ウラン濃縮工場
http://nekotomo.at.webry.info/201202/article_8.html
●MOX燃料工場
http://nekotomo.at.webry.info/201202/article_9.html
<むつ市>
●使用済み核燃料中間貯蔵施設(建設中、今年7月稼動予定)
http://nekotomo.at.webry.info/201104/article_13.html
●現存原発   東通1基(停止中)
●建設中原発 東通1基 大間1基

また、それだけではなく、三沢にはアメリカ軍基地が戦後からずっと居座っている。しかも、日本最大の砂丘を利用して防衛省の弾道試験場まであるのだ。
http://nekotomo.at.webry.info/201110/article_7.html
終戦後から下北半島には、原発利権や安保・基地利権に毒された自民党政権の時代から、地元の人々が日本政府やアメリカ軍に散々翻弄され、思惑通りに開発・利用されてきたという歴史がある。その詳細については、下北のルポを通して鎌田氏が下記の本につぶさに書いているので、ご一読をお勧めする。

ルポ 下北核半島――原発と基地と人々
岩波書店
鎌田 慧


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【一部転載】

「ルポ 下北核半島」 鎌田 慧 著

第2章 核最終処分場候補の不安・東通村

海あればこそ カンフル注射としての交付金 最終処分場への策動

地域にはいりこんできて、無惨に分断されるようになった。
 「エンジンが故障しても、引っ張ってくれなくなった」
 と東田さんが嘆いていった。
 一九七〇年代初めのむつ小川原開発反対闘争でも、もっともつよかったのは、漁業の集落である六ケ所村の泊部落だった。東通村でも、原発反対運動かつよかったのは、漁民がいちばん多い白糠部落だった。板子一枚下地獄。漁はでたとこ勝負、ということからくる一本気ということもあるが、海が汚染されれば、たちまちにして漁に響く、との直感からだ。
 東通原発から出される温排水は、毎秒八〇トン。二五メートルプールが、たった五秒で満水になる量、といわれている。それが海岸に流されず、放水管で八○○メートル沖合に流されている。その影響が魚にどうあらわれるかは、まだわからない。
 一方では、原発の堤防が沖合いに張りだしたため、沿岸の潮の流れが変わってしまった。海底の砂が、沖から堤防をつたって陸に押し上げられてくる。いままで、自然界には、まったく見ることのなかった現象があらわれてきたことも、漁民たちにとっての恐怖なのだ。
 東京電力の港湾工事がはじまってから、海に大量の捨て石が役人された。その石に付着している汚れが、海を汚染しはじめている。

海あればこそ

 船主組合の副会長、漁業研究会会長を務めていた東田さんは、伊勢田さんとともに、白糠漁協理事であり、漁協内につくられた「原発対策委員会」の委員長として、原発受け入れにともなう漁業権放棄に抵抗してきた。が、いずこもおなじなのだが、漁をしたこともない村民が、水増し正組合員に格上げされ、議決権をもつ賛成派に編入されるようになって、反対派は少数派に転落した。
 白糠漁協と小田野沢漁協(正組合員五三六人、準組合員一二九人)が、県知事の斡旋案を呑んで、補償金総額一三〇億円、漁業振興基金四〇億円で妥結したのは、一九九二年八月だった。
 それまでも、三八億七〇〇〇万円(一九八四年二月)、七二億六七〇〇万円(同六月)と提示額は引き上げられてきたが、漁協側は拒否していた。一九九〇年になって、漁協側から一人当たり五〇〇〇万円、総額三二六億五〇〇〇万円という要求金額がだされ、結局、ほぼその半分で妥結した。
 漁業補償金額とは、生活補償というような根拠はなく、原発側のそのときの緊急性と知事斡旋に見られるように、政治的解決金という性格である。海には地価のような、需要と供給、あるいは一般的な相場というものがないからである。組合員には一人当たり五〇〇〇万円から二〇〇万円の間の金額が支給された。配分委員会が算定したのだが、これにも強い不満が残った。
 白糠、小田野沢漁協の妥結のあと、一九九三年六月、尻労・猿ケ森漁協、各四億一五〇〇万円。同年10月、老部内水面漁協一億六二〇〇万円。一九九四年一月、隣村の六ケ所村泊漁協にも一五億六四〇〇万円が支払われた。
 「一八年もたって、とっくに補償金は使い果たしてしまった。家を改造して、それで終わりだった」
 伊勢田さんの述懐である。
 「死にたいなら死ね、生きたいなら生きろ、というのが行政だ」
 「国はカネでごまかそうとしたんだが、それは、みな売りたい気持ちを見抜かれていたからだ」
 「おれたちの代は、これでよかったかもしれないが、将来はどうなるか」
 とふたりの話は、最初の話にもどった。自然を相手に暮らしているからこそ、地域の将来を心配する。たとえ息子や娘が都会へでていったにしても、そこでの生活が立ちゆかなくなれば、またもどってくる。故郷との根っこが切れてしまって、都会に定住するようになったものには薄れてしまったが、どこか心が安らぐ生活感覚である。
 東田さん宅の居間には、「水産庁長官」の「表彰状」が飾られている。ヒラメ漁の漁具を改良した功績が顕彰されたものである。それ以前のヒラメ漁は、箱眼鏡で水中を見て、ヤスで突いていたのだが、東田さんは三年をかけて、刺し網で獲る漁法を成功させたのだ。
 地先(沿岸)の海で、ヒラメ、アブラメ、ソイなどの高紙魚を獲る。「老人と海」のような、三時間にもおよぶクロマグロとの格闘もある。漁の多い魚種としては、イカ、サケ、マス、などがある。磯ではサザエ、ウニ、アワビ、コンブ。不漁のときもあるが、海があればこそ生きていける。いまはまだ恵まれた海として残されている。が、これからは、原発の影響で先のことはわからない。
 伊勢田さんと東田さんとの話は、明るいものにはならなかった。

カンフル注射としての交付金

 東通村にこれまでに入った、国からの電源三法などによる交付金は、二三四億円(二〇一〇年現在)にものぼる。東北電力の第一号の稼働は二〇〇五年だったが、すでに一九八八年から交付金が入りはじめ、五年後の一九九三年には、その金額が一三億円に達した。それ以来、年によって増減はあるにしても、二〇〇八年には二八億円が入っている。いわば交付金漬けである。
 どこでもそうなのだが、電力会社は飲ませ喰わせは当たり前たった。「打ち出の小槌」のように、叩けばなにかをだしてきた。
 買収業務を請け負った県の開発室は、白糠、老部地区にお寺がないのでお寺がほしい、との要求にたいして、「法制上の制約から県、村の事業としてはできないが、実現したいので、別途協議して決定します」などと回答している。結局、実現しなかったが、ベラボウな話である。
 村財政をみると、一九九七年の「村税」が六億三〇〇〇万円だったのが、二〇〇六年には五五億円に達している。これは前年の第一号炉の稼働にともなって、それまで一四億円たった「村税」が、一挙に五五億円になったものである。
 しかし、歳入合計では、一九九七年の九三億円が、二〇〇六年、二〇〇七年とも一一一億円への微増止まり、それほど豊かになった感じはない。一九九七年当時は、地方交付金が歳入の三分の一の三〇億円もあったのだが、それが一億一〇〇〇万円に減らされているからである。それでも、赤字続きの過疎地の自治体にくらべれば、目をむくような巨額な財政である。
 といっても、先行き補助金は切られる。つぎからつぎへと、アヘンのように、あるいはカンフル注射のように、原発を誘致しないかぎり、カネがはいってこない、というアリ地獄になるのは、いまからみえている。
 巨額なカネがはいった、といっても、村の様子には、はじめてきたころとさほどの変化はない。たしかにアルミサッシに片流れの洒落た家がふえたのは、漁業補償金のせいかもしれないが、泊街道の風景にはさほどの変化は感じられない。ときどき、この道を通過して見慣れているからかもしれないが……。
 極端に変わったのは、村役場が移転してきた砂子又(すなこまた)界隈で、ここはむつ市にむかう分岐点なのだが、マンガの宇宙人の顔を想わせる円形の交流センターや三角屋根の庁舎、巨大な中学校校舎などが集中して建設された。そこだけが巨額な交付金を感じさせる地域となっている。
 六ケ所村の知り合いで、亡くなったひとたちを指折り数えることができるのは、亡くなるころまでお邪魔していたり、消息をきくことができたからだ。それにひきかえ、東通村の反対派で気安く訪問できるのは、伊勢田、東田さんのふたりくらいである。
 この村でいちばん最初にお会いしたのは、油屋の店主だったIさんだった。彼は村会議員だったが、原発先進地をみて反対派に変わった。その後、ふたりの息子さんが海難事故で死亡するという不幸に見舞われた。それ以来、妻はますます海を大事にしたい、と反対の意志を強めたが夫のほうは賛成に傾斜していった。
 小型漁船の船主のTさんは、よく勉強していた理論的な反対派だった。わたしはときどきお宅に寄っては、村の状況を教えてもらっていた。が、子どもが就職するときに、電力会社の誘いに乗った、といわれている。その後、漁協の理事になり、組合員になったが、そのころになると、もう反対とはいわなくなっていた。
 そのように、人間の変化をみてきた四〇年だった。村議会の原発誘致決議から運転開始まで、長い時間がたった。IさんにもTさんにもお会いすることはなくなったが、「裏切り者」として弾劾できるようなものではない。外から批判するのは簡単だ。だが、反対を継続するために、おまえはなにをしたのか、と問われれば、なにをしたとはいえないからだ。
 それは、「反対から賛成に変わるのはよくあること」というのとはちがう。政府や企業の重圧は、反対する住民だけにかかっているものではなく、支援するものにも加わっている。そこに住んでいる人たちが、運動から離れていくのは、まわりに押しとどめる力をつくれなかったからだ。

最終処分場への策動

 東通原発が利用している敷地は、両電力が所有している土地の一七パーセントほどのものでしかない。ここに二〇基もの原発を並べる、と発表した当初から、わたしは強い疑問を感じてきた。それは最初から実際には考えていなかったストーリーだったのではないか。
 「第二の原子力センターは、東通村」という竹内県知事の発表が、彼独自の判断であるはずがない。
 「第二原子力センターは、茨城県東海村の後継地として、原子力委員会が物色していたもので、新全総発表のころ、有沢広巳原子力委員会委員長代行が、むつ市の原子力船定係港を視察したあと東通村をまわり、第二原子力センターの第一候補として、県と折衝していた」(拙著『六ケ所村の記録』)
 このとき、竹内知事は、原子力産業会議(現、日本原子力産業協会)から、「用地の先行取得を要請されている」とも語っている。原発の集中立地点のことを、「原子カセンター」とは呼ばない。核の集中立地地域を指す。だから、高レベル放射性廃棄物の埋設も考えられていたのではないか。
 たとえば、七基の原発をもち、世界的な原発集中地でもある、故田中角栄の足許にある柏崎刈羽原発地帯が、「原子カセンター」と呼ばれることはない。その敷地でさえ、四二〇ヘクタールにすぎない。東通原発はその倍以上の、八七三ヘクタールである。
 東通村の越前靖夫村長は、最終処分場について、積極的に発言してきた。
 「自分の地域で出た廃棄物は自分の地域で処理する――という考えに基づき物事をすすめるのは当然だ」
 村が独自にだした核廃棄物ではないはずだ。二〇〇九年11月、村役場の経営管理課の西山純主査に会ったとき、すでに村議会は全議員参加のもと、「核燃料サイクル事業勉強会」を開催した、と語った。六ケ所村の再処理工場や岐阜県瑞浪市の深層実験施設など、最終処分につながる施設の見学もしている。
 三村中吾県知事は、「最終処分場は受け入れない」と語っている。「県知事の了承なくしては最終処分場にしない」と担当大臣が約束している、というのが「担保」とされている。
 しかし、知事が代わったあと、後任の知事が認めれば可能になる、とのふくみもある。県は再処理工場の操業を認めている。しかし、最終処分揚ができないかぎり、そこから発生する高レベル放射性廃棄物の行き場はなく、県内に堆積されるだけだ。
 東京電力広報部に行って、二号炉建設計画のあとは、どうするのか、と問いた。ところが、「それまで(二号炉まで)しか計画はない」と断言した。一〇基つくるとの発言は、社内的にはなかった、という。
 「しかし、一〇基分の土地を手当てしているではないですか」
 とわたしは自分の疑問をぶつけた。
 「東北電力と共用で、電事連の最終処分場にするのではないですか」
 広報部の担当者は、「時間を下さい」と、即答を避けた。翌日になって、
 「本敷地は、当社が発電所建設用に取得したものであり、本敷地に最終処分施設を建設するという考えはございません」との回答が、編集部にファクシミリできた。
 すでに六ケ所村も東通村も、原発マネーの中毒患者、といえる。与えられるだけの補助金は、時間とともに減っていく。結局、なにものも生みださない。無駄に空費させるだけ。だからこそ、また、最終処分場の建設需要、固定資産鋭、迷惑料としての補助金、新鋭(核燃料税)などをあてにするようになる。
 こうして、この東北の太平洋に面した、長い海岸線をもつ、ふたつの隣りあった六ケ所村と東通村とが、もっとも汚染の危険性が高い、日本最大の「原子カセンター」にされようとしている。
 それは、一九六〇年代、失敗に終わった、原子力船「むつ」の曳航からはじまった、下北半島の負の歴史である。低レベル放射性廃棄物埋設センター、高レベル放射性廃棄物貯蔵所、濃縮ウラン工場、核燃料再処理工場、やがてMOX工場、核燃料転換工場、その北側の東通村に最終処分場などの核施設がならびたつ、この押しつけられた「恐怖の未来図」は、下北半島だけの運命で終わるわけはない。無関
心は加担であり、共謀である。
 「毒を喰らわば皿まで」。東通村の悲しい選択は、持続不可能の選択、である。しかし、それは東通村の独自の選択ではない。「選択」の形をとった誘導であり、押しつけである。その政府と核産業連合の暴力を止めるのは、わたしたちの「当事者意識」である。


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