JAL123便事故 関連資料・11

「天空の星たちへ」 青山 透子 著(マガジンランド)
第三部 乱気流の航空業界 未来はどこへ 229
第三章 上野村へ 349
*御巣鷹の尾根が語りかけること

/あの日を語る①


<380>
 やまびこ荘の落ち着いた趣のある和室で、地元名産の十石まんじゅうと、名木で入れた渋いお茶をいただきながら、さっそく当時の話が始まった。

 この部屋にいらっしやる三人は、当時の上野村の行政のトップ、村長だった黒澤丈夫氏、墜落直後、生存者を助けた民間の地元消防団の元団員、黒澤武士氏、そして歯型から身元確認をなさった歯科医の大國勉氏である。
 行政、民間、歯科医師と墜落時の要となった方々が一堂に会するのは後にも先にもないのではないか。それぞれの胸の奥であの日がよみがえる。
 一番先に当時の墜落現場へ駆けつけた元消防団の黒澤武士氏が語った。

 「墜落翌日の十三日、朝六時に東小学校のグラウンドに集まってくれって言うから集まったんです。上野村の消防団は八分団あって、私は第五分団で、全部が現場へ行けたわけではないんですね。手分けして、ぶどう峠や違う沢や、一日歩いても行けない分団もあった。私は偶然というか、たまたまで。上空にヘリが回っている沢づたいに登っていて、喉が渇いたから、沢で水飲んで、なんだかいつもと違ってうまくない水だな、って言いながら登って行った。そうしたら、突然飛行機の残骸があって、山の上は木が燃えていて、下は火の気はなく、残骸が、家がつぶれたような感じで、瓦礫の山でねえ。行ったはいいが何していいか分からない」

 いつもの歩き疲れた喉を潤す清らかな沢の水が、まったく美味しくなかったという。
 いろいろなものが流れ込んでいたのか、まずい水だと思ったとたんに、瓦礫をひっくり返したゴミを散らかしたような現場に遭遇したのだ。

 地元民で結成する上野村消防団員として、たまたま何年か前に山火事があって行ったことのある山だった。それで道がよく分かった。
 現場では、山の上はまだ木が燃えていて、下には火の気がなく、ボストンバッグやいろいろな荷物、財布やお金がたくさん落ちていて、それが飛行機の残骸と上にまみれて、瓦礫の山という表現しか見当たらない。

 すると、自分たちは沢の下から登っていったが、自衛隊員がすでに山の上から降りてきたそうである。黒澤武士氏が現場に到着したのは、朝九時頃である。
 「とにかく生存者がいるかどうか探すのだ。ということになって、歩いていたら、誰かいるみたいだということになって、吉崎さん親子を発見したんだ。

 自分は子どもさんのほうを瓦礫の埋もれた中から出すことになった。そこに六分団の人たちも加わって……担架もないから、木を切る物を持ってたから、急いで山の木を切り、その辺にあった飛行機のカーテンのようなものを持ってきて、担架を作って子どもさんを乗せた。顎が切れていたけど、血が全然出てなかったね。不思議だった。

 吉崎さんのお母さんのほうも救出していたら、そのお母さんが『ほかにもまだ声がしたから……』って言うんだよね。だから、『まだ他に生きている人がいるかもしれないからよく見て』って言われて、まさか皆死んでるって言えなかったから、『ハイ、大丈夫だよ』って言って。
 私なんかは子どもさんのほうを責任もって連れて行くっていうことで、山の山頂へ連れていったんですね。坂だから大変なんですよ」

 この尾根はかなりの急斜面で、最大傾斜度四十五度を含んだ平均三十度と言われており、にわか作りの担架に乗せて、吉崎さん親子を持ち上げて沢を登るのは実に大変な作業だった。急斜面を登る時、生存者を乗せた担架は、上の人は低く、下の人は高く持たなくてはならなかったので、消防団員でお互いに作業を手伝って上までようやく登った。
 その時、周りには地元消防団だけで、独自の判断で脈などを見た。その後も落合さんや川上慶子ちゃんも見つかったということで、生存者の四人をとにかく一刻も早くと懸命に作業をした。

 「尾根の上にようやく上がったら、死体というか腕や足が取れちゃって、ごろごろしていて……胴体というか、椅子に座ったままで下が切れてしまって……」
 とにかくすさまじい光景で、特に臭いがすごくて言葉が出なかったという。

 そこで元村長の黒澤丈夫氏が、
 「私は上野村がこの事故に果たした役割は二つあると思います。ひとつは救助救難のサポートに全力を挙げたということ。もうひとつは、上野村自治体が亡くなった人の慰霊と葬送を責任を持って行うことであります」
 と、耳にSONY製の補聴器をつけて、しっかりとした口調で話し始めた。

 事故を知ったのは、東京出張から帰って七時ちょっとすぎ頃、NHKの日航機行方不明というニュースで、テレビでは長野側の北相木らしいと言っていた。しかし、向こうは高度が高いから火が見えるはずだが、ここからは見えない。そのうち上野村の上空をさかんにヘリが飛ぶので、どうも上野村ではないかと思っていたところ、夜十時過ぎになって、県警本部の河村氏から電話があり、「今、長野県警の本部長から電話があって、長野側には落ちていない、どうも群馬側だ」という判断が伝わった。

 「明日朝五時に上野村に機動隊を千五百人入れるから協力してくれ」と言われ、翌朝五時少し前に役場に行ったら、すでに大勢の機動隊の人たちが夜中から来ていて、二階の廊下にごろ寝状態だったと職員から報告を受けた。
 村長室でNHKニュースを見ていると、現場付近の映像が入り、これはどうも上野村の本谷らしいと思い、付近の植林を手掛けた友人に電話をして、
 「おい、テレビ見たか」「見た、見た、あれはスゲノ沢だ!」
 と彼が言うので、役場にある無線で案内出来る人たちを呼び出し、墜落現場はスゲノ沢だ、そこに県警や十二師団(注20)の人たちを案内しろ! と叫んだ。
 その後、十二師団や県警と話し合いをして、何とか現場にヘリで降りられないだろうかということで、急きょ木を切り、ヘリが降りられるようにした。


 日ごとに身元のわからない遺体も増えてきている中、誰か分からない遺体は明治に出来た法律により上野村で葬式を出して永久に上野村の仏様として、慰霊、葬送をしなければならない可能性が出てきた。
 確認のため、急きょ雫石へ職員を向かわせた。航空自衛隊と民間機がぶつかって事故を起こした雫石事故を参考にしようとしたのだが、あの事故は遺体の損傷が少なく、全員身元が分かり、家で葬式が出来た、ということであった。
 法律では、身元が分からない人が村で生き倒れになった時、その自治体が責任を持って葬式をすると書いてあるが、一回、二回はともかく、永遠に出来るわけもお金もない。

 「上野村では戦没者が123人いるんですよ」
 と一息ついてゆっくりお饅頭を食べてお茶を飲みながら元村長がおっしやった。
 「え? 123人ですか」
 123便と同じ数字だ。これもまたなんという偶然だろう。現在、公で戦没者をお祀りすることが出来ない。なのに日航機事故の犠牲者だけを祀ることが出来るかどうか、村民感情もある。そう思って日航側の費用負担や政府に今後の葬式費用などを相談しに十二月二十三日に東京へ行った。

 法的に、葬送慰霊の問題は村の責任ということがハッキリし、日航の当時の社長(山地社長)より、十億出すからとの言を得、あとは県やお見舞いなどで十三億ぐらいの予算となった。それで『慰霊の園』設立と、以後の慰霊行事挙行の基盤作りを進めていった。さまざまな問題を解決して、やっと立派な納骨堂や墓標も出来るとなってほっとした。事故の翌年、八月に慰霊祭を行ったが、黒服を着て頭を下げていると、日航側の人間と間違えらえて、「この野郎!」という感じで睨まれた。しかし村長として真心をこめて式辞を読んだので、遺族もだんだん私のことや村の事情も分かってくれるようになっていった。

 今後この上野村は、世界に向かって航空機事故を起こさないように訴えることが仕事であり、使命だと思っている。それは、原爆の広島や長崎と同じ立場で、突然の飛行機の墜落事故で燃えた上野村がやらなければならないと、そういう気持ちです、と話された。

 実は黒澤元村長は、著書によると人生で何度か死にかけたことがあるとのこと。そのひとつは広島の原爆であったそうだ。
 原爆投下の日、広島において陸海合同で防空通信に関する会議が予定されており、艦隊司令部のほうから通信と防衛の参謀が、自分たちの戦隊からも通信と作戦参謀が出席予定であったが、通信会議なので、作戦参謀であった元村長は出席しないでよいことになり、行かなかった。
 前日に広島へ行った人たちは、翌朝旅館で朝食中に被爆した。こうして生死を分けることになってしまったのだという。

 終戦後、戦闘機乗りとして教育されてきた自分は、理に徹した行動のみで、妥協を知らない。こんな自分か出来ることは何かと考えて、懐かしい山村の故郷、上野村にて農林業をする以外道はないと決断して帰った。シイタケ栽培を手掛けて、乾椎茸の全国品評会にて天白どんこで優勝を手にして、一九五九年に林野庁長官賞をいただいた。

 こうやって土地に根ざした生活をしていくと、戦後政治の弊害が見えてくる。
 しきりに民主化と叫んでいてもそれは名ばかりで、末端社会は相変わらず一部の人間の意で事が動き、因循姑息な人の意識が見え隠れしてくる。そこで村の腐敗を憂い、真なる村の振興を願って立候補し、一九六五年六月十四日に村長に就任、以来十期四十年間にわたって村長として住民中心の行政を行い、二〇〇五年に九十二歳で引退したのである。

 就任当初、上野村は、群馬のチベットと呼ばれたりしたが、栄光ある村にしようと決心をして、四つを柱に行政を行ってきた。
 ①健康水準の高い村、②道徳水準の高い村、③知識水準の高い村、④経済水準の高い村、として、「村民相互の協力が原則」と、いつも話しをしてきたことが、あの日航機事故において、混乱の中が一致団結し、協力して、社会の恩に報いる活動をしてくれた村民に感謝しているとおっしゃった。



JAL123便事故 関連資料・11

「天空の星たちへ」 青山 透子 著(マガジンランド)
第三部 乱気流の航空業界 未来はどこへ
第三章 上野村へ
*御巣鷹の尾根が語りかけること

/あの日を語る① p380~
http://nekotomo.at.webry.info/201210/article_3.html


JAL123便事故 関連資料・12

「天空の星たちへ」 青山 透子 著
第三部 乱気流の航空業界 未来はどこへ
第三章 上野村へ
*御巣鷹の尾根が語りかけること

/あの日を語る② p387~
http://nekotomo.at.webry.info/201210/article_5.html


JAL123便事故 関連資料・13

「天空の星たちへ」 青山 透子 著
第三部 乱気流の航空業界 未来はどこへ
第三章 上野村へ
*御巣鷹の尾根が語りかけること

/先輩の墓標 p398~
http://nekotomo.at.webry.info/201210/article_6.html


JAL123便事故 関連資料・14

「天空の星たちへ」 青山 透子 著
あとがき 未来への提言 p428~p431

/JAL倒産
http://nekotomo.at.webry.info/201210/article_7.html 


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