JAL123便事故 関連資料・2 《生存者 落合由美さん証言②》

「墜落の夏」 (吉岡 忍 著:新潮社)より
JAL123便墜落事故生存者 落合由美さん証言②

衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。その途端、頭にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。音は、まったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。

衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした。


すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。

体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなく、もうぐったりしているという感じです。

目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。失明するだろうな、と思っていました。これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐ目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。

呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、と私はぼんやり思っていました。ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、と思って、私は舌を強く喘みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛めないのです。

墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。

「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。

次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような影がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋っているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。

シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだん食いこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり綺子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。

どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。

それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。

突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。

私はただぐったりしたまま、荒い息遺いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。

やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちやいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く……。

このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。

体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。

涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。

気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然に出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。

あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。

風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、パーツと飛んできて、顔にあたるのを感じました。はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。

すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。

そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。臓朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。

体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが「あのときは打ちどころが悪かったりするといけないから、あげられなかったのよ」と言われましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。

目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。

「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。

家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。飛行機が落ちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。現実感がなかなかとりもどせないのです。

たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。全部女の人ばかり」と教えてくださいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。

天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに間くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。

救出された日の午後三時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか……」と口にしたのですが、夫はすぐに「しやべらなくていいから」と言いました。


画像


落合由美さんは八月十三日午前十一時半に事故現場から救出された。墜落後十六時間以上が経過していた。落合さんを含む四名の生存は、まったくの奇跡的な出来事だった。ただちにヘリコプターで群馬県藤岡市に運ばれ、多野総合病院で手術を受けた。骨盤骨折、左上腕と前腕の骨折、それに全身にスリ傷があった。

事故後、生存者救出のおくれが問題になった。落合さんがここで十分に述べているように、四名のほかにも、墜落後かなりの長時間、複数の生存者がいたことは間違いない。墜落地点の確定がもっと早く的確に行なわれ、出動がもっと迅速に行なわれていたなら、高度七千三百メートルからの帰還者はあと何人かふえていた、という可能性を否定することはできない。

落合さんは十月十六日、多野総合病院から神奈川県厚木市の県立総合リハビリテーション・セン夕ーに転院した。以後、毎日のように機能回復訓練を行ない、事故から七ヵ月余が過ぎた一九八六年三月十三日に退院した。

救出されてすぐ、夫の落合可之さんは多野病院の医師にたずねている。これだけの大事故をくぐりぬけてきた患者が肉体的にばかりではなく、精神的にも回復するには時間がかかるのではないか、どうすればいいだろうか、と。医師の返事は、症例がないですから、というものであったという。実際それは、正直な答であったにちがいない。

病院に入っていたとき、落合さんは激しい痛みや動けないことにときどきいらだって、枕もとのテイッシュ・ペーパーの箱などを夫に投げつけることがあった。「止めたらいけないと思ったんです」と、可之さんは言う。「怒るというのは、生きたい、という欲求の証拠じやないか。それならどんどん投げさせたほうがいい。素人考えでしたけどね、だけど、間違ってはいなかったと思いますよ」

落合由美さんの夢が、ひとつある。「もう一度、飛ぶことです。実際に飛んだら、きっと怖いと思いますが、でも、このままスチュワーデスの仕事をずるずる辞めたら、きっと後悔するような気がするんです」



JAL123便事故 関連資料・1 《生存者 落合由美さん証言①》
http://nekotomo.at.webry.info/201209/article_2.html

JAL123便事故 関連資料・2 《生存者 落合由美さん証言②》
http://nekotomo.at.webry.info/201209/article_3.html


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック